書作において、その題材を選び出すことは、和歌にしても、小説にしても、論評にしても、それを読み込み味わう機会でもある。そういうことを私の生徒のひとりが、自ら気づいてくれたことは嬉しかった。
ある意味で読書すること以上に、その一文を思索する。
直近で私が選んだのは、詩人・大手拓次の「日食する燕は明暗へ急ぐ」という詩の一節。
だいたい、ここからここまでという区切りが見えやすいものが多い中で、拓次の詩には、そういった区切りがあまりないように思える。
そもそも、詩というものに、始めと終わりすら必要であろうか、と問いかけられているように、一度イメージの中に入り込むと、なかなか抜け出せない詩なのかもしれない。
拓次も自ら詠んだ詩の海に、自ら漂い、身をあるがままに委ねて森羅万象の一部と化しているのではないかと、そんな感じがする。
そして心と手は繋がっていて、詩と書に境はない。
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このみちはほがらかにして無である。
ゆるぎもなく、恍惚としてねむり、まさぐる指にものはなく、なほ髣髴としてうかびいづるもののかたち。それは明暗のさかひに咲く無為の世界である。はてしなく続きつづきゆく空である。
それは、放たれる仏性の眼である。
みづからのものをすてよ。
みづからをすてよ。
そこにかぎりない千年の眼はうつつとなく空霊の世界を通観する。
うごくもの、
ながれるもの、
とどまるもの、
そのいづれでもなく、いづれでもある
……