誤解されている書芸術
戦後、個人の抑圧が解放された日本に、西洋の斬新な「抽象表現主義」が流入し、墨による前衛的な書画がブームとなりました。昨今ではデジタル社会の反動からか、非日常の道具となった筆と墨を使って、感情を自由に表現することが書道であると捉えられている傾向もあります。
しかし書道は本来、自分自身の心や存在を表そうと、力を外に向かって放つ「自己表現」の類ではなく、先人たちに習い、自分自身と向き合いながら修練により、“文字”の美しさを究めていく学問・芸術です。また書道に限らず「~道」の付く芸道の世界においては、〈自己表現することではなく、自身を高めていくこと〉に主眼が置かれます。
自我の趣くままに文字を誇張したり、歪めたり、また言葉(文字)の意味やメッセージ性を造形の中に反映させようとすればするほど、書道の本質からは離れてしまいます。歴史を紐解いてみても、書聖 王羲之の書にしろ、日本の能書の筆頭である藤原行成の書にしろ、いかに人の目を引くかといった作為や思惑が見透かされるような書ではありません。あたりまえのことをあたりまえとして乱さずに、それでも雅趣の佇まいが感じられるのです。書の芸術的価値は、そこに書かれている内容でも、書き手の意図に委ねられるものでもなく、万人の心を掴むような美の原則を内在しているかどうかが鍵となります。
誤解を恐れずに言うならば、書道は〈個々の独創性を追求するものではなく、普遍的な美しさを追求するもの〉ではないでしょうか。
現代の書家としての役割
古代、神との交信の手段として文字が誕生し、象形文字から変化を遂げてきた漢字。その漢字を基に、平安時代に編み出された平仮名。「文字の形」には、三千年という長い歳月の中で、先人たちの手によって洗練されてきた美しさが備わっています。つまり〈文字は、それ自体が既に芸術品〉だと私は考えています。
さらに書道の本質は、技法や筆法を含む文字の一点一画に宿る美への探求と、古の美意識を追体験することにあると言えます。そこには、近代以降、利便性の追求により使用されてきた「活字」という無機質な記号や、毛筆から移行した「硬筆ペン字」の画一性には見出すことの出来ない、奥深い幽玄な美しさが漂うのです。
今後はデジタルツールの普及に反比例するように、アナログ文化への価値は高まっていくことになるでしょう。このような時代に、私は現代におけるエレガンスとは何か、またそれをいかに結び合わせて書にしていけばいいのか、というテーマを追求しています。同時に、書道への興味を一人でも多くの人に抱いて頂けるよう、国内外におけるワークショップ、席上揮毫、ウェブサイトでの情報発信など、様々な取組みを積極的に行っていきたいと思っています。
木下真理子(翠風会主宰)