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洗心パワースポット 高山寺 編3/3

〝千里眼〟を持っていた明恵の洗心パワー

高山寺を語るうえで見過ごせないのが、「華厳宗(けごんしゅう)中興の祖」と称され、実質的な開基とされる明恵上人(みょうえしょうにん/1173年-1232年)の存在です。

少年時代には先の神護寺に入って出家。鎌倉新仏教が隆盛した時代にあって、伝統的な仏教を継承していた明恵はあまり表舞台には出てきません。けれども数々の逸話が残されていて、魅力的な人柄であったことをうかがわせます。

例えば、日本に禅宗を招来した栄西(えいさい)との出会いの場面───。身分が高く、参内からの帰り道で人目を引くような美しい御車(みくるま)に乗っていた栄西に対して、明恵は墨染めのボロボロな衣に草履(ぞうり)という出で立ちであったといいます。

おそらく明恵は、衣食住に対して執着を払い除ける「乞食(こつじき)」の精神性を、心に置いていたのではないかと思います。

「一切の妥協を許さない求道者」であった明恵は、煩悩を断ち切り仏道に専念しようと、24歳のときに自らの手で右耳を切り落としたことでも知られています。そして華厳教などの教学研究に熱心に取り組んでいました。

そんな明恵が使っていた石水院(東経蔵を移築)には、〝聖なる経典の世界〟の残滓(ざんし)が今も漂っているような気がします。

裏参道の坂道を上り切ったところに、石水院の入口に当たる小さな門がある。門札は木下が以前対談させて頂いたこともある、九州国立博物館の島谷弘幸館長の筆によるもの

また自身の夢にも現れるように、縁ある神として「春日明神」も信仰していたという明恵。このあたりに日本特有の〝神仏習合(神と仏を共に敬うこと)〟の信仰心を見て取れます。

もっとも「春日権現験記(ごんげんげんき)絵巻」には、春日の神が、明恵が望む天竺(てんじく)渡航を阻止しようと、橘氏(たちばなうじ)女に憑依して託宣する場面が描かれています。もしかしたら、慕われたのは明恵の方だったのかもしれません。

手前は裏山の中腹にある金堂。朱塗りの春日明神の祠(ほこら)も隣接している。高山寺では1228年の洪水被害に遭った後、春日明神や住吉明神を祀ったという

森多き日本において、古神道にも繋がってゆく太古の原初信仰では、森羅万象に神が宿ると信じられてきました。

明恵はよく裏山(楞伽山・りょうがせん)に籠り、二股に分かれた松の「縄床樹(じょうしょうじゅ)」で、坐禅にふけっていたようですが、その様子は、弟子の恵日坊成忍による「明恵上人樹上坐禅像」に残されています。

神が宿る木や石といった自然物、小鳥や栗鼠などもことごとく尊き存在として慈しみながら瞑想し、自身は自然の一部であるという、自然との一体感を感じていたことでしょう。

高山寺を代表する『鳥獣人物戯画』(国宝・複製)も間近で鑑賞することが可能。人間も動物も区別なく、有情の生き物と考えた明恵の思想を知ることができる

澄んだ心には、すべてが映ってしまうのかもしれません。

千里眼を持っていたとされる明恵は、遠くで虫が手水鉢に落ちたり、小鳥が襲撃されたりしていることをいち早く察知し、侍者に命じて救ったという伝承も残されています。

南縁から望む向山。世間と距離を置き、孤独と相対した明恵は、月をこよなく愛し、よく月の歌を詠んだ。桜の歌で有名な西行が神護寺を訪れた際、明恵は歌心を学んだとも伝わる

境内を散策していると、清澄な水に自分が映し出されているような没入感を覚え、身心ともに浄化されてゆくことに気がつくはずです。日常から一歩引いてみれば、日々の暮らしにおいて、滲みわたる〝余白〟と〝潤い〟がいかに大切であるかを、しみじみと感じます。

人が坐れる大きさの石があればどこでも坐禅を組んでいたという明恵ですが、大きな自然とともに深く呼吸すること、自然と化すほどの密なる接触を通して得るものは、人間的な孤独というより、自然の中の〝ゆとり〟ではなかったかと思います。

写真:佐藤奈々子 テキスト:木下真理子 協力:高山寺

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