洗心パワースポット 東福寺 編3/3
文化人も多く輩出。華やかな五山文化の舞台
東福寺は、京都五山(幕府や朝廷の庇護を受けていた臨済宗の寺格)の一つでありながら、格式張っていない開かれた寺院です。
中国への派遣僧によりもたらされた、国際的な先進文化と風通しのいい雰囲気に惹かれて、日本文化の担い手となる人物が、数多く引き寄せられてきました。かの織田信長が京の町衆を集め、大茶会を開いたことも知られています。
「画僧」「歌僧」という言葉があり、当時の禅宗寺院は詩歌や絵などを極めたいと考えた人たちにとって適した環境でしたが、日本の水墨画もまた、この東福寺なくして江戸へと至る発展はなかったと言えます。
東福寺の僧で、水墨画初期の大家として知られる吉山明兆(きつさんみんちょう)の絵は、若き雪舟にも影響を与えたと言われています。雪舟は、地元岡山の井山・宝福寺(いやま ほうふくじ:東福寺系)に入門し、その後京に上って東福寺、相国寺で修行するなど、東福寺とは浅からぬ関係にありました。
東福寺の境内にまったく桜がない理由
こうした東福寺の文化的発展を支えたキーパーソンが、室町幕府の四代将軍・足利義持です。
室町といえば、北山文化・金閣寺の義満(三代将軍で義持の父)、東山文化・銀閣寺の義政(八代将軍で義持の甥)ばかりが目立っていますが、実は義持もこの二人に引けをとらない文化的な意識が高い将軍でした。
その義持が帰依(きえ)した、八十代住持・岐陽方秀(ぎようほうしゅう)のもとには、義持とのつながりで能楽の世阿弥も通っていたそうです。先進的刺激に満ちた場所で、禅に導かれるように審美眼が養われ、世阿弥の芸術論は高められていったのでしょうか。
義持と先の画僧・明兆には、興味深いエピソードが残っています。
明兆の「大涅槃図(だいねはんず)」に感激した義持は、明兆を呼び寄せて「望むところがあれば、何でも申すがよい」と言ったそうです。ところが、明兆はそれに対して意外な答えを返しました。「地位や財産は要りません。ただ願わくは境内に桜の木を植えるのを禁じてほしいのです。桜の木が多過ぎて近い将来、境内が遊興の場となっては困りますから」。
明兆の思いにいたく感じ入った義持は、境内の桜の木をことごとく伐採してしまったそうです。そのため、東福寺には現在も桜の木がまったくありません。
どんなに美しく麗しい風景も、ただ俗の遊興に終わっては仕方がない。筆をとる時間の連続の末に、明兆が見たものは清潔な日常生活の尊さ、清浄な心の美しさであったのかもしれません。
戒律、規範のもとに身を精進しながら、しかし、常識や型にはまらない精神の貴さを伝えるこの寺院は、書も、絵も、能も、そして日常生活も、禅定とひとつらなりであるということを教えてくれます。