先日の台風、そして既に梅雨明けのような晴天。
窓辺で涼やかな風を感じながら、静寂に満ちてゆく夕刻の空を眺めていた。
「空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか」。
これはオノヨーコさんの『ただの私(あたし)』の序文の中の言葉。
本当にやり切れるかもわからないような孤独な作業を、ここ何年も続けながら、自分の無力さを
噛みしめたり、何でもないような発見に心を躍らせたりしている。
近頃はよく「ChatGPT」という言葉を耳にする。
人間の代わりに、瞬く間にAIが答えを示してくれるとのことで、実際にChatGPTが書いたという文章を
読んでみた。
驚くほど精緻にできている。もう小説も書けてしまうくらい、日々進化しているらしい。
人間の思索の介在の余地など無いようにも見受けられた。
曲がりなりにも、私はこうしてブログを記している。
拙い文章を恥ずかしくも綴っているのだけれど、そこには、考える時間、思う時間、文字に置き換える
時間があって、今、文章を整えている自分がいる。
思えば、日本が世界に誇るアニメーションなどの映像コンテンツは、いち人間では不可能な領域が表現
されてきた。
〝できない〟ということを〝できる〟ようにと思考することは、きっと創造性へと繋がっている。
ただ、このままでは近い将来、人間は、機械を操って、情報を操ってと勘違いしながら、〝できる〟こと
も、〝しない〟ようになってしまうような気がする。
その結果、人間はいずれ自分の無力さを思い知るだろうし、自ら生き甲斐というものを見出していくこと
さえも、できなくなってしまうのかもしれない。
願わくば、AIと対話しながら人間にできないことを達成しようとする前に、人間同士でもっと助け合い、
喜びも哀しみも分け合いながら、世界中のみんなが共に生きていけるような、そんな温かい未来であって
欲しい。