書道あるいは習字を行う目的に、字を綺麗に、なめらかに書けるようになるためということがあると思います。「字は上手いことにこしたことはない」と。
この春から気持ちも新たにお稽古を始める方もいらっしゃることでしょう。ただ、綺麗に書けるようになるということは、ある程度手習いをしていけば、それほど難しいことではありません。
最近、私には思うところがあります。それは人というのは完璧でないからこそ人であり、なりふり構わず必死に打ち込んでいる時に、自然発生的に美しさというものがもたらされて、それこそが本物なのではないかと。そんな思いに符合するような書に出会いました。
この書は、あるお寺の待合い室に掛けられていました。パッと見たところ、恐らく「龍門書道会」という流派の作品ではないかと推測しました。“いかに存在感を持った書であるか”ということをテーマに古の書を辿っていくと、見えてくるものがあります。それが書道の奥深さでもあるのですが・・・それは、中国の王羲之や日本の藤原行成のような歴史的に名を残した書人による端正な書だけが、素晴しいものではないということです。
書人だけが字を書いていたわけではないので、名もなき人々の書も数々残されていますが、そのような書がいくつもの時代を越えて、模倣され、継承されるのには、理由が存在します。 それを、ごく簡単に言うならば、綺麗とか端正であるという概念からは逸脱した領域にある、無骨でアンバランスな美があるとでもいうのかもしれません。そして、アンバランスなもの、完全でないものに惹かれてしまうのは人間の本質であり、それは取りも直さず、人が皆、不完全な存在であるということの裏返しなのだと思うのです。
この秋また日本で『日本の美しい文字プロジェクト』を開催することができそうです。場所は鎌倉が予定されていて、そこは禅宗の地という土地柄でもありますので、「墨跡」について触れようとも思っていますが、墨跡以前に、そもそも、人にとって文字とは何なのだろうかという根源的なテーマを掘り下げていけたらと思っています。
ところで、上記の書ですが、落款をもとに調べてみたところ、龍門書道会の会長である、豊道溪峻先生によるものではないかと思います。先生は大正から昭和に活躍した天台宗の僧であり、書道界初の文化功労者である豊道春海(ぶんどうしゅんかい)の孫にあたるお方です。書道の深淵な魅力は脈々と受け継がれています。
「龍門展」・・・4/17~4/20、銀座かねまつホール