書道の神髄Ⅱ

オリンピックも開幕となりました。連日、夜中いや朝方まで、世界各国の選手たちの強靭で美しい技の数々に、釘付けとなっています。各国から選抜された選手たちによる、日頃、磨き抜かれた技と技とがぶつかり合う真剣勝負は、新たな世界記録も生み出し、人間のさらなる可能性が提示されているようです。強い選手を見ていると、そこには我欲など無く、無心で競技に取り組んでいるように見受けられます。

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さて、書道界も毎年この時期になると、大きな書展が開催されます。『毎日書道展』と『読売書法展』と呼ばれる「」です。この二大書展には、合わせて6万点以上の作品が日本全国から出品されています。

よく、「古典派の読売(書法会)」、「前衛派の毎日(書道会)」と言われていますが、いずれも日本書道史の系譜上に位置付けられる、正統派です。この二大書展の出品数のことを考えた時、それだけの参加者がいるということは本当に凄いことですが、数の上から見たら、逆にこの時代の書道を象徴している、と言えるものではないでしょうか。

もちろん、これ以外にも、独自のスタンス、基準を持った書道団体、書展はいくつもありますし、また、書道団体というのは、とかく、権威的であるとか、古いしきたりで窮屈であるなどと言われてもいますので、そういったところに所属せずに書道を行っている方もたくさんいらっしゃいます。

ただ、一生をかけて自分の実力を高めていくのが、“道”のつく世界だとすれば、そこには近道などないように思いますし、大きな「書展」が、高名な先生方も若手も一緒になって、切磋琢磨し合う場となっていることは、独善的に陥ることがないことも含めて、意味のあることだと思います。

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ところで。

前回の記事で取り上げさせて頂いた青山杉雨先生は、生前において、いわゆる自ら「個展」というものを行わなかったそうです。それは青山先生の美学であると思います。

書道というものは、一生勉強であり、生きている間は向上心を持ち続けているので、常に【未完成】であって、それを人前で堂々と披露するということは、恥ずかしい、そのようなお考えでいらしたようです。

昨今の書道ブームは、自己アピールのためのツールとして書道が捉えられていて、自分らしさや個性を、気軽に書道で追い求めようとすることが見てとれますが、そうした風潮に違和感を感じているのは、私だけではないと思います。大袈裟に言うなら、自己表現する行為と、書道の本質を極めていこうとすることとは、本来かけ離れたことだと言えます。

書道における、自分らしさや個性というものは、いくつもの型や技法を模倣していく中で、自然に滲み出てくるようなものであり、それは「書風」とも言われていますが、長年にわたる技術や美意識の鍛練によって培われていくものだからです。

また、その年齢の時にしか書けないような、人生経験や境遇などによってもたらされた内面性(見識や感性)が作品に反映されるということもあるとは思いますが、それは後々振り返った時に見出されることであって、ことさら自分の内面性を誇示するために、文字を脚色して(文字になぞらえてデザイン的に)書くということは、これも書道の本質とは異なることだと思います。