メールが当たり前になった今日、年賀状を「書く」という行為も、一般的な傾向として年々減少している。私などは、書家という生業をしていることもあり、この時期がくると無言のプレッシャーを感じてしまう(笑)。
そもそも年賀状というものは、新年の挨拶状であり、「祝い」の意味も込められているので、その習わしは日本人らしく、素敵なことだと思う。年賀状のはじまりには、そうした美しい心の発露があったに違いない。
でも一方で、生まれた時から年賀状が習慣化され、送る側の手を煩わせないような様々なデザインのテンプレートなども販売されてきた世代にとっては、義務感のようなものを感じて、苦痛になっているということがあるのではないだろうか。ならば、普段会って話せる間柄の人には年賀状を送らないと決めてしまうのも、一つかもしれない。会える人には直接会って、会話で「祝い」や「感謝」の心を伝えれば良いし、葉書というものは、現代においては、普段なかなか会えないような人との交流の為にあるものだとも思う。
また年賀状というのはもともと元旦に届くものというより、元旦に書くものだった。それが〈早めに書けば、元旦に届く〉といった郵便システムが始まって事情が変わったのだから、何も慌ただしい師走に無理をして、書くことを面倒だなどと感じたり、ストレスを感じることはないように思う。むしろ、元旦の落ち着いた余白の時間を使って、懐かしい人、お世話になった人の顔を一人ひとり思い起こしながら、葉書に向かい、ゆっくりと心を込めて書いていくことも趣がある。
スピードと利便性が優先され求められるあまり、人の気持ちは窮屈に、そして置いてきぼりにされてしまう。メールで瞬時に言葉を届けられるという恵まれた環境であるからこそ、逆に言えば、人との交流が疎遠になってしまうということもある。
しかし、先の見えない不安な時代にあっては、お金や地位ではなく、人と人との“心”の交流や、そこで熟成される“信頼”こそが本当の財産となる。相手の名前や、感謝の気持ちを書きながら、その幸せを確かめるところに、年賀状を書くことの愉しみはあるのではないだろうか。