■短期集中連載「台北 國立故宮博物院」展■
第二話 文物への想い
故宮の文物が二つの場所に別れた背景には、「歴史」というストーリーがあります。王朝の滅びと革命、戦争の問題が重なりあって、文物の所在が運命づけられることとなったのです。
今から103年前の1911年。孫文らによって起こされた辛亥革命(しんがいかくめい)によって、中国最後の王朝である清王朝は滅び、翌年「中華民国」が建国されることとなりました。君主制から民主制を勝ち取り、清王朝時代に築かれた文物も人民のものとなって、帝の住居であった紫禁城は、後に北京故宮となりました。そしてその後、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と続いていく時代の中で、孫文の後継者となった蒋介石(しょうかいせき)の判断で、文物は戦火から守るために、北京故宮より運び出されました。
しかし、第二次世界大戦が終結すると、今度は中国国内において、毛沢東が率いる中国共産党と蒋介石の国民党との内紛が激化しました。その戦いに共産党が勝利して、毛沢東は「中華人民共和国」を興しましたが、その後の文化大革命によって、それまでの中国の「伝統」は破壊され、北京故宮も数年間閉鎖されることになりました。その一方で、蒋介石は200万人の人民と、故宮の文物の多くを持って海を渡り、台湾において「中華民国」を再興したのです。
古代から中国は、文物(文化)=政治(権力)そのものとされており、それは中国以外の国で言われているような「文化重視」とはニュアンスが異なります。中国は、日本のような天皇家や、単一の王家というものがなく、常に王朝の誕生と滅亡によって存在してきたからです。王朝が興るたびに、新しい皇帝が着手することは、戦乱で離散した前王朝の文物を再び集め、自らも文化振興に血道を上げるということでした。
過去をなくして、現在を受け止められず、その過去を伝えるのが文物であったので、その所有者が由緒正しい歴史を所有するという構図があるのです。つまり、蒋介石は伝統的な文物を有することによって、中国の本流は自分たちであると世界に示そうと考えたのです。
参考文献:野嶋剛『ふたつの故宮博物院(新潮社)』
第二話「文物への想い」