目覚め~古事記編纂1300年 part2~

朝、目覚めると、この頃はだいぶ暖かくなってきました。

先日は、久しぶりにお花屋さんでお花を買って、レンタルショップで『いちばんきれいな水』という映画を借りてきました。日本映画で、ついタイトルに惹かれ借りたのですが、とてもいい映画でした。

ストーリーはと言うと・・・、8歳の時に難しい病気で眠った状態のままになってしまった少女が、11年後に突然目を覚まし、身体は19歳に成長しつつも、心は8歳のままで。そんな少女のひと夏のエピソードが描かれています。
どのようなところに感動したかと言えば、その少女の純心さが、大人から見たら危険と思えるようなことや無茶なことを、次々と、それも平然と行ってしまうというところです。これには正直、まいりました。

私も大人になるにつれて、いろんな固定概念や常識を持ち、リスク回避の為に様々な想定をしたりするのですが、逆にそういったことに縛られていて、身動きがとれなくなってしまっているということに気付かされたからです。
小さい頃は冒険心というものがもっとあったように思います。大人になるということは臆病になることなのかもしれません。そのことを痛感しました。

 

さて話は変わりますが、2月19日の日曜日には、淡路島で『古事記編纂1300年』に関するシンポジウムが開催されて、お招き頂きました。ちなみに1300年前のその日(旧暦1月28日)は、太安万侶(おおのやすまろ)によって、元明天皇に古事記が献上された日です。

ここ数週間は『古事記』や『古事記伝』関連の書物をあれこれと読んでいたわけですが、特に『古事記伝』について、本居宣長が古事記を解読していく中で、生粋の“大和魂”とは何か?という壮大なテーマを探求している書物だとされていて、興味深いものがありました。
それは、西洋からの経済原理はもちろん、中国の思想や宗教(仏教や儒教、陰陽五行説)など、そうした価値観に縛られる前の日本人の精神の在り方についてが考察されています。

古代の日本人は、宗教の教義にあるような善悪という概念もない、災いも幸いも全ては自然の摂理であり、あるがままに。驚きや戸惑いの思いは、“あはれ“という感慨として受け入れながら、とてもシンプルに生きていました。
これは五木寛之さんの言われている「他力」ということに近いのかもしれませんが、常識という人間の叡智の限界について、考えさせられました。

今年は一年を通して古事記を見直してみたいと思います。